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肥沼信次(こえぬま)医師のドイツリーツェンの桜に感動!伝染病の功績や子孫の現在は?本や映画化は?世界ナゼそこに?日本人

 

ドイツの首都ベルリン

ここから2時間ほど行った場所リーツェンに

とある八王子市出身の日本人医師が眠っています。

その方の名前は肥沼信次医師。

今回、2019年3月4日に、

テレビ東京で21時から放送される

「世界ナゼそこに?日本人」で特集される医師です。

肥沼信次医師が世界ナゼそこに?日本人で特集

 

番組予告の内容は次の3点

  • 彼は戦後ドイツに自らの命を顧みず人々を救った伝説の日本人医師
  • 恐ろしい伝染病と戦い“神様”と語り継がれる彼が成し遂げた大偉業
  • 死から43年後に起きた奇跡とは?

なぜ、戦後ドイツに残り神様とまで語り継がれるようになったのか、彼の生き様が気になったので調べてみました。

死から43年後に起きた奇跡、、、泣けますね。

それではご紹介します!

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肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師のwikiプロフィール:世界ナゼそこに?日本人

 

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師の簡単なプロフィールはこちら。

  • 生年月日:1908年10月9日
  • 没年月日:1946年3月8日(37歳)
  • 出身大学:日本医科大学、東京帝国大学

ここで注目すべきは37歳という若さで亡くなっているという衝撃の事実ですよね。

彼はその37年という短い生涯ながら

第二次世界大戦後、ソ連軍が占領する街で彼はたった一人で

多くのチフス患者の命を救い、

今もなおドイツでその功績がたたえられています。

 

肥沼信次の経歴:世界ナゼそこに?日本人

 

肥沼信次は、八王子で出生から大学進学後、ドイツのベルリンへ

1908年、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は

八王子市の開業医の家に生まれました。

1934年に日本医科大学を卒業。

その後東京帝国大学放射線研究所に進みます。

しかし、日本は医学の後身国であり当時、

最先端の医学が研究されていたのはドイツでした。

そこで、1937年、27歳になった肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は

最先端の医学を学びにドイツに飛び立つことに。

 

ドイツでは、首都ベルリン大学放射線研究所に入所。

研究に没頭し、ベルリン大学医学部で

東洋人初めての教授資格を取得されたというから驚きです。

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第二次世界大戦勃発!肥沼信次は、命令に反しドイツで医師として生きる道を決心

 

しかし、まもなく1939年9月1日ドイツがポーランドに侵攻し

第二次世界大戦が勃発。

戦況は次第に悪化し、ソ連軍が国境を突破。

ドイツ国内に侵攻してきました。

1945年にはベルリンも大規模な空襲にあいました。

 

陥落が時間の問題となっていたベルリンには、

当時、残っていた日本人全員に避難命令が出されることに。

 

ベルリンで医学を学びたいという肥沼信次医師の夢は

残念ながら戦争で打ち砕かれてしまったのです。

 

翌日、日本大使館に行けば日本へ帰国。

しかし、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は

日本大使館に現れませんでした。

避難命令に従わなかった肥沼信次は、

誰にも告げず、ドイツで医療を続ける道を選んだのです。

 

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は

ベルリンの北東にあるエバースヴァルデに疎開。

小さな診療所ながら、ドイツの人々を治療する日々。

そしてついに1945年5月、

ドイツは連合軍に無条件降伏をし、

欧州戦線は終結することになったのです。

 

戦後、リーツェン感染病センター長に就任!発疹チフスの街に

終結後、エバースヴァルデから25キロほど南のリーツェンという都市で

発疹チフスが流行していました。

戦闘で上下水道などが破壊され、

不衛生な状態おかれていたことが原因だそうです。

リーツェンの街に一人も医師がいなかったことがその流行に拍車をかけます。

リーツェンは伝染病指定地域に指定されており、

死の街として恐れられていましたが、

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師はリーツェンに向かうことを決心。

 

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師が帰国しなかったのは、このようになることを予測していたのかもしれませんね。

1945年9月、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師はリーツェン伝染病医療センター長に就任。

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は発疹チフスの恐ろしさに負けず、患者の治療を行うことを決意!

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師がリーツェン伝染病医療センターのドアを開けると

そこにはまだ戦場が続いていました。

当時蔓延していたのは「発疹チフス」

現在は治療法が確立しているものの、

当時は赤い発疹と高熱に襲われ、15日程度で死に至る伝染病と恐れられていました。

しらみを媒介とするため、患者との接触は死との隣り合わせ。

当時、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師のそばにいた看護婦ヨハンナは当時を振り返り、

あまりに悲惨な状況を目にして、私は恐ろしくて中に入ることができませんでしたと語りました。

しかし肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は、迷うことなくそのドアの中に足を踏み入れ

どんな患者にも優しく、感染への恐れは微塵も感じさせることなく

全ての患者の手をとり握手を交したそうです。

医療器具や薬はもとより、食料も殆どなかったそうです。

治療は不可能に思えた、しかし肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は

「薬はないけれども諦めないでください、一緒に頑張りましょう」

と励ましました。

そして、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は感染の原因であるシラミを排除する為、

衛生上の改善を行います。

また、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師の活動はセンター内に留まらず、往診や薬の調達にまで及んだそうです。

自宅にも診療所を設けた肥沼信次の睡眠時間はなんと1日2時間という不眠不休の状態で治療を続けました。

多い日にはなんと150人の治療を行っていたそうです。

 

チフス末期症状の少女を救う為ソ連の野戦病院へ嘆願!

そんなある日、往診に出かけたとき、ギゼラというチフスの末期症状の少女と出会います。

その少女は、薬無くして助かる見込みはありませんでした。

なんとかその少女を助けたい・・・そう思った肥沼信次は

ソ連軍の野戦病院に薬があると知るや否や行動に移します。

なんと、そのソ連軍の野戦病院は列車で2時間、

徒歩で2日間という、たどりつくのも相当苦労する距離。

しかし、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は患者の為だけを思い、たどり着き

ソ連軍から何度も断れようとも、頼み込みをして

薬を調達したそうです。

しかも、その調達した薬について治療費を取ることはなかったそうです。

ちなみにその娘ギゼラさんは現在薬剤師として働いているそうです。

そんな肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は、他の患者にとっても大きな支えとなっていたでしょう。

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師への感謝への思いは、患者の間で広がっていきます。

時には、娘を助けられたにも関わらず治療費を請求されなかった村人から

代わりに食料が届けられたこともあったそうです。

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肥沼信次が発疹チフスで死去

しかし、そんな不眠不休で働いていた肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師の体力も限界が近づいてきます。

当時の家政婦イムガルトさんはこう当時を振り返ります。

「彼は顔も真っ青で、やせこけた状態だったのに患者にはいつも親切で笑顔で接していました。」

そしてついに、1946年3月6日、

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師の体が発疹チフスに冒されることになりました。

患者の前では決して、日本に戻りたいという態度は微塵も見せたことがなかった肥沼信次。

しかし、わずか2日後の3月8日、

病気には打ち勝つことができず、死を迎えました。

 

彼の最後の言葉は

「桜がみたい・・・」

自らの意思でドイツに残ってても

心の奥底で常に祖国日本のことを考えていたんでしょうね。

37歳というあまりに短い生涯でしたが、多くの人々の心に今も残り続けています。

リーツェンの桜!肥沼信次の最後の想いがついに叶うときが・・!:世界ナゼそこに?日本人

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師は、リーツェンに墓が当時ソ連の占領下では日本にその死去の知らせを伝えることはできませんでした。

しかし、リーツェンの人々は、何十年たっても彼への感謝の思いは忘れることはありませんでした。

そして、1989年ベルリンの壁崩壊をきっかけに

彼の死を日本に伝えようと動き始めたのです。

 

娘ギゼラを助けてもらった母は、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師の死去に対しこう語ります。

彼はとてもいい人で、いつも希望を与えてくれた。

彼自身が病気になってしまって、とても悲しかった。

でも私には何も出来なかった。

周囲の人々も、彼を日本の家族の下で死なせたかったんだとおもう。

でも、あの時は毎日多くの人々が死んでいき、

誰も、どうすることもできなかったんです。

 

彼の最後の言葉「桜が見たい・・」という言葉を

なんとか肥沼信次の家族に伝えたい。

その思いを胸に、リーツェンの人々は、日本の新聞に

「故コエヌマ・ノブツグ医師のご遺族、ご親類の方」

という尋ね人の記事を掲載。

そしてついに、肥沼信次の弟、栄治さんは

戦争で消息不明となった兄の生き様を知ることが出来たそうです。

1994年、肥沼信次の弟はリーツェンを訪れ、

兄を知る看護婦ヨハンナさんや元家政婦イムガルトさんといった、

当時の兄を知る人々と面会。

そして、兄の最後の言葉を聞いた栄治さんは、

リーツェンに100本の桜を贈ったそうです。

春になると、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師の墓を始め、町中で花開く桜。

桜がみたい・・・

自分の命を投げ打ってでもドイツの患者のために尽くした一人の日本人医師の最後の思いは

彼に救われた人々によって、実に48年という歳月を経て果たされたんですね

肥沼信次の本や映画は?リーツェンの桜

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)医師の姿は、

舘澤貢次さんにより『リーツェンの桜』として小説となりました。

第二次世界大戦後のドイツで医療に従事した

肥沼信次がドイツへ渡ってから

亡くなるまでの姿が描かれています。

 

 

 

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